過去と未来が調和した景観 (横浜赤レンガ倉庫 1911〜13年竣工)
(「新・美の巨人たち」テレビ東京放映<2022.1.29>より主な解説を引用)
巨大煉瓦建築の美であり、未来を創り生きている歴史遺産でもある「横浜赤レンガ倉庫」。その歴史を辿ってみると (以下は赤レンガ倉庫公式サイトより一部引用)
1859年
横浜村が開港の場所として定められ、横浜の都市としての歴史が始まった。
明治44(1911)年〜大正2(1913)年
当初は国産煉瓦約636万個を用い、「国の保税倉庫」(1号及び2号倉庫)として造られた。
1923年
1号倉庫は半壊したが、耐震技術が施されていたこともあり、倉庫は震災を生き延びた。
1945年
戦時中は軍事物資の補給基地となるも、終戦後はアメリカ軍に接収され、港湾司令部として使用。
1956年
接収が解除され、港湾倉庫として再稼働。
1983年
横浜市は、「みなとみらい21」事業に着手。新港地区は、赤レンガ倉庫を中心に歴史と景観を活かした街づくりが進められることに。
1989年
倉庫としての用途廃止。80年の歴史に一旦幕をおろす。
1992年
横浜市は、国との交渉の末、赤レンガ倉庫の土地と建物を取得。保存・活用に向け大きく前進した。
1994〜1999年
保存のための本格的改修工事期間。
1999年
「港の賑わいと文化を創造する空間」、横浜らしい文化の創出、市民が憩い賑わう空間としての事業コンセプトを決定。
2002年
リニューアルオープン。9年間に及ぶ保全・活用工事を終了。倉庫は、文化・商業施設として甦る。
2007年
国(経済産業省)の「近代化産業遺産」に認定。
2010年
「ユネスコ文化遺産保全のためのアジア太平洋遺産賞」優秀賞受賞。
2011年
通算来場者数が5000万人を突破。
2021年
2号館倉庫創建110周年を迎える。
倉庫の設計にあたったのは、明治建築界三代巨匠の一人で、当時の大蔵省臨時建築部にいた妻木頼黄(つまき よりなか 1859-1916)氏であった。倉庫の試練としては、関東大震災の他に、「コンテナ船」の世界的普及が、倉庫の利用用途を廃止の方向へと向かわせたが、第18代横浜市長の飛鳥田一雄氏(任期1963-1978年)は、「赤レンガ倉庫は、横浜市民の財産として残す」ことを英断した。倉庫の廃墟化がすすむ中、1992年に横浜市が国から国有財産であった倉庫の土地と建物を取得した。
単なる歴史遺産建物倉庫の「保存」ではなく、時代に合わせての活用を視野に入れた「保全」へ進み、「みなとみらい21」事業の中では、駅東地区、中央地区、新港地区の3つのゾーニングとともに、市の景観カイドラインに沿い、美的景観づくりを戦略的にすすめていった。
その結果、中央地区は、未来的に高さ制限300メートルでもいい、建物の色彩も、ガラスとかコンクリート色などの無彩色系を中心に構成。赤レンガ倉庫をコアとした新港地区は、茶褐色系の色合いに統一させ、比較的ゆるやかな高さ制限とした。このことから、エリアごとの対比が生み出され、あたかも「過去と未来が調和した景観」の具現化へと結びついていった。
元横浜市デザイン室職員の国吉直行さんは語った。
「ナビオス横浜ホテルにゲートをつくり、そこから海方向へは、歴史遺産「過去」としての赤レンガ倉庫が視野に入り、振り向くとランドマークタワーをはじめとする「未来」が見えるように仕掛けた」と。そして、「ハマッ子という方々が、横浜の独特な歴史や他の都市にないものを大事にしようとしてきた」「横浜は市民の参画はもとより、企業や商店街の方々の理解と協力を得てできたまち」とも。
(番組を視聴しての私の感想綴り)
横浜は、私の生まれ故郷であり、「美的空間を追求しつつ感性を大切にする街」であり、「歴史的・文化的資産を大切にしつつ、散策しつつ物語を生む街」でもあると感じてきた。
赤レンガ倉庫の存在も、古いものは廃棄して終わりではなく、なんとか未来につなげ、活かそうとするハマッ子たちの志というか、心意気をそこに感じてならない。
実は本ブログを書くにあたって、私はタイムリーに開催されていた「都市デザイン横浜展」を観に、みなとみらい線・馬車道駅そばのアートスペース、「BankART KAIKO」展示会場を最近(2022.4.12)訪れた。
当初は3月下旬までが開催期限であったのを、その時点ですでに5000人以上の来館者を迎え、好評により4月下旬まで展示期間を延長していたのも幸いした。
そこで、今回は番組視聴部分の感想と、同展示会を拝見しての感想を合わせて、以下の3点に絞って書き記したい。
① 幾多の先人たちの横浜・都市デザインに傾けた大情熱と志(こころざし)と心意気に感動
なんでもそうであるように、一朝一夕に出来上がるようなものは「本物」から程遠い。
幾多の失敗と成功、実験、侃侃諤諤・喧々轟々の話し合い、立場を超えての創造的解決案の提案と合意形成など、並々ならぬ先人たちの努力の結晶の上に、今の横浜の街並みがあることを忘れまいと感じた。
開港以来の歴史を感じさせる都心部エリアをはじめ、横浜市は市内全域を、都市デザインの対象として街づくりをすすめてきた。「都市デザイン50年の実践」として、都市空間の「質」にこだわり続けてきた、数多くのプロジェクト手法の展開と歴史の蓄積も横浜にはあることを学んだ。
展示内容の一部で、私なりにキーワードと思われたものを、ピックアップしておきたい。
Urban Design YOKOHAMA QUALITY & QUANTITY
「個性と魅力ある街をつくる」、「物語のあるまちづくり」、「歴史的・文化的資産を大切に」、「感じる街の記憶」、「歴史ある建物に光をあてる」、「心と身体に触れる自然」、「どこまでも美しく」、「歩いて楽しい」、「オープンスペースや緑を豊かに」、「みんなで街を創る」、「水辺空間を大切に」、「コミュニケーションの場を増やす」、「人が主役のまち」、「横浜らしさを創造的に考え話し合う」、「視覚的・造形的・空間的美しさを求める」、「夜に魅せられる」、「活動の場はいつもそこに」etc.
② 歴史ある建物に光をあてる・・・例えば「赤レンガ倉庫」
過去と未来が調和した景観のシンボル的存在の一つが、独断ではあるが間違いなく、過去・歴史遺産としての「赤レンガ倉庫」であり、未来・創造的発展のシンボル「ランドマークタワー」や「横浜ベイブリッジ」であろう。
海側から眺めたみなとみらいエリアの美しい景観は、朝夜を問わず人々を魅了してやまないものとなっている。街全体に「過去・現在・未来の時間軸」が存在し、街の物語を積み重ねていっていると言ったら、大袈裟であろうか。
③ 文化・芸術の実験などによる創造都市・YOKOHAMAの高みを、市民とともにさらに磨きめざしていってほしい
「都市が踊りだす」をコンセプトに、「Dance Base Yokohama」=「DaBY」の存在を知った。複合芸術であるダンスの発展のため、振付家やダンサーといったアーティストのみならず、音楽家、美術作家、映像作家、照明デザイナー、音響デザイナー、またプロデューサーやプロダクションスタッフ、批評家、研究者、そして観客の皆様の交流拠点となることをめざすという。
また、そこはクリエーションを行うレジデンススペースでありながら、地域のアーティストや市民との交流も行い、ワークショップや実験的なトライアウト公演の実施や、ダンスアーカイブ事業など、さらなる多様な試みを展開する目標を立てていると聞く。
そして、嬉しいことにDaBYは、旧横浜生糸検査所附属専用倉庫を復元した、レトロな空間に位置している。クリエイターのための真の創造の場にしていくため、様々なひとや知と巡り合うことのできる空間構築をめざすとしている。
YOKOHAMAのある意味での伝統でもある、先進的・先駆的な取り組みの真骨頂が、ここにあると感じた。
以下は余談である。
こうした試みというか、心意気と対照的であったのが、「BankART KAIKO」の入っているビルKITANAKA BRICK&WHITE BRICK northから、道を挟んで真新しく立っていたのは、移転・新築なった「横浜市役所新庁舎」ビルであった。
ハマッ子の一人である私としては、ハコモノとしてのスッキリとした新庁舎ではなく、創造性を感じさせるクリエイティブな要素を混在させた新庁舎を期待していたが、そこには合理性、効率性、あるいはIT先進性やセキュリティなどの課題も混在してか、やはりというか、スッキリはしているものの四角いビルに落ち着いたのは、個人的にはやや残念な気持ちではあった。
写真: 「新・美の巨人たち」テレビ東京放映番組<2022.1.29>より転載。
同視聴者センターより許諾済。
赤レンガ倉庫HPより抜粋引用。
筆者撮影写真(一部あり)
左手前に赤レンガ倉庫などの歴史的遺産建物群、バックにはランドマークタワーをはじめとする未来都市群。そのコントラストが美的調和空間を演出。
赤レンガ倉庫HPより抜粋 YOKOHAMA REDBRICK WAREHOUSE 創設110周年
「都市デザイン横浜展」 (2022.4.24まで開催中・BankART KAIKO入口にて 筆者撮影 2022.4.12)
BankART KAIKOの入る KITANAKA BRICK & WHITE ビル
みなとみらい線・「馬車道駅」そば 筆者撮影 2022.4.12
横浜市役所の新庁舎ビル 筆者撮影 2022.4.12
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