東京「上野・寛永寺」は京都づくしであった?
(「新・美の巨人たち」<テレビ東京2021.7.31放映番組>主な解説より引用)
「東叡山・寛永寺」(1625年創建)は、東京・上野にある天台宗関東総本山の寺院である。開基は江戸幕府3代将軍の徳川家光で、開山は天海大僧正(1536-1643)、本尊は薬師如来。
徳川将軍家の菩提寺であり、歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に葬られている。そして、圧巻の美をまとっている寺院と言ってもいいであろう敷地内の数々の建造物が、どれも重要文化財に指定されている。
例をあげれば、「旧・寛永寺五重塔」、「上野東照宮」「唐破風造り四脚門」、東照宮社殿の「金色殿」、「清水観音堂」などである。
特に、平成31年から5年の歳月をかけて修復されたという「金色殿」(上野東照宮・社殿)の壮麗な美の建築に目を見張った。日本工業大学名誉教授・工学博士の波多野純氏は語った。「最初に「漆」(うるし)を塗るところからはじまり、次に「金箔」(きんぱく)を手作業で貼っていく。(ここで使われた金箔はおよそ11万枚)さらに、その金箔上に「彩色」を施していく。徳川の永久を願って建てられた建築物であることから、修復とはいえ職人さんがここで費やした時間とエネルギーは大変な量とご努力になる」と。
また、狩野探幽が描いたとされる襖絵も、およそ400年前の描いた当時のままの絵画も残されている。
この寺院は、京都にある比叡山・延暦寺の再現ともいえる構想のもと、徳川家に仕えた天海大僧正が造営を指揮した。さらには、「不忍池」も滋賀県の琵琶湖に似せて、天然の池から人工的に拡張した経緯がある。
中国の風水や陰陽道にも通ずることではあるが、京都御所から見て「北東」に位置するエリアを「鬼門」として、比叡山を建立したように、江戸城から見て「北東」の方角である上野の地に、「寛永寺」を配し造営したことで、ここでも京都に似せた造営の目論みがあった。
さらには、京都の名刹「清水寺」の再現ともいえる「清水観音堂」を、ここ寛永寺の境内に造営した。
このように、まるで「京都づくし」ともいえる造営建築物の数々は、徳川家の未来にまで向けた天下泰平を祈る菩提寺としての風格と気品を、今でも漂わせてい る。
毎年春になると、桜のお花見の名所の一つとして名高い上野公園の桜である。実はこれも、現在の東京国立博物館前にある噴水広場の位置に、当初の寛永寺本堂が置かれていたことから、本堂に向かう参道に、奈良から吉野桜を移植して育て上げてきたことから、今日の桜の名所・上野へとつながっているという由来がある。
今回のアートトラベラー本仮屋ユイカさんは番組の最後に語った。
「天海さんが当時の名プロデューサーであったことから、楽しめる場所の少なかった当初の江戸にあって、<人を楽しませたい>ことも意識してはじまった上野エリアでの寛永寺造営。このことがあったからこそ、今の東京・上野公園の広々として素敵な<癒しの公園>につながっているのですね」と。
「上野は小さな京都?」その意味がわからずにいたが、本番組を視聴して、寛永寺の不思議な世界、上野公園とのつながりなど、私にとってもいくつかの「謎」が解けた気がした。
特に印象に残った点を、3点挙げてみたい。
① 昔は、上野公園、不忍池、上野駅、東京国立博物館辺りの一体エリア全てが、寛永寺の境内・敷地の一部であった点である。
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