横浜生まれ 郷愁のシンボル「氷川丸 <浮かぶ重要文化財> 1930(昭和5)年竣工」
(「新・美の巨人たち」テレビ東京放映番組<2020.10.10> 主な解説より引用)
その船は、山下公園の桟橋に、今や横浜のシンボル、横浜港そして横浜の絵の一部として停留し続けている。その年月は90年を刻む。
北太平洋の女王として君臨した12000トン級の貨客船「日本郵船 氷川丸」。全長163.3メートル。1930(昭和5)年横浜船渠にて建造され、太平洋横断は横浜ーアメリカ・シアトル間をメインに、254回にのぼる。船内は、日本でもいち早く取り入れたアール・デコで飾られた豪華な客室をはじめ、溢れるほどの非日常の美で飾られている。
乗客では、アメリカの喜劇王チャップリン氏が、1932(昭和7)年、帰国に際して氷川丸に乗船。柔道の父、嘉納治五郎氏(1860-1938)は、1938(昭和13)年、オリンピックのIOC総会からの帰りに乗船したが、悲願の東京オリンピック招致の疲れが出たのか、出発まもなく船内にて肺炎を発症、横浜港へ到着する2日前に還らぬ人となった。そして、東京オリンピックは幻に。
この船は、「奇跡の船」「強運の船」とも呼ばれている。太平洋戦時中の1941(昭和16)年、氷川丸は海軍に徴用、「病院船」として改装され傷病兵を収容するなどした時代も経験した。ちなみに、戦時中に日本は100総トン以上の商船を、2568隻も失った。そんな中にあっても、氷川丸は奇跡的に生きながらえた。同船の最終就航は、1960(昭和35)年のシアトルー横浜であった。解体か保存かの議論の末、1961(昭和36)年に、保存船舶として山下公園に係留され今日に至っている。
ちなみに、横浜にはもう一船「帆船 日本丸」<浮かぶ重要文化財>が、みなとみらいエリアに係留されている。こちらは、船員志望者の実地訓練のための練習船として、やはり氷川丸同様に1930(昭和5)年に竣工した。
氷川丸第28代目の金谷範夫船長(船長歴17年)は語る。「氷川丸はいまや横浜の一部であり、象徴であり、残すべきものです」と。
(番組を視聴しての私の感想コメント)
私は、横浜生まれの「浜っ子」である。小学校時代に、両親に連れられて、氷川丸を見上げ見学したことや、大桟橋に停留していた外国からの大型客船を、驚きとため息で見上げていたことを、いまでも鮮明に覚えている。私の原体験の一つと言ってもいいかもしれない。
横浜が好きで、とりわけ山下公園やマリンタワー、氷川丸の周辺辺りを散策するのが、今でも大好きである。
反省すべきは、何度も訪れていた横浜の氷川丸であったが、今回の番組を視聴して知らないことの多さに愕然とし、またそんな無知な自分を恥ずかしいとの思いにも襲われた。
番組が、最後に結んだ言葉が印象的であった。
「いつ来てもいる。船が美しいのはその姿や形だけではない。たくさんの人と物を運びながら、その航路に残した様々な感情と記憶こそが、かけがいのない美しさ、氷川丸は、横浜のシンボルそのものである・・・」と。
横浜港、大桟橋、本牧埠頭、山下公園、横浜中華街、外国人墓地、ファッショナブルな元町商店街、横浜ベイサイドクラブなどなど、ここでの思い出は数えきれない。それゆえに、いまでも時々は、郷愁とともに、まるで磁石で吸い寄せられるように、生まれ故郷の横浜へ足を運んでしまうのである。
少し前に番組でも取り上げた「横浜三塔物語」も横浜の素敵な景観を象徴しており、東京では決して味わえない空気感というか、雰囲気を醸し出していて、それが堪らない魅力でもある。おそらく私は、死ぬまで横浜とともに街の景色に溶け込みたい、浸り続けていたい・・・・という想いが込み上げている。幼少期の思い出の玉手箱でもあり、私にとっての原体験、それが郷愁のシンボル「横浜」である・・・
写真: 「新・美の巨人たち<テレビ東京放映2020.10.10>」より転載。同視聴者センターより許諾済。
山下公園に係留されている「氷川丸」の全景。
夜のイルミネーションに映える氷川丸(船尾より)
豪華な装飾で飾られている一等客室向けの船内食堂
船内を結ぶアール・デコ調の螺旋階段
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