「来者如帰」の心でお迎えする 京都の老舗旅館「柊屋(ひいらぎや)」(創業 文政元<1818>年)
「美的なるものを求めて」テレビ東京放映番組<2020.4.4>
「春の京都で美に憩う」シリーズ 主な解説より引用
「柊家」(ひいらぎや)は、「来者如帰」(らいしゃにょき)の心(=「我が家に帰って来られたように、寛いでいただきたい」)で、200年にわたり京旅行に訪れたお客様をお迎えしてきた。
数寄屋造りの外観。打ち水された玄関。隅々まで磨き上げられた館内。
ここは、ノーベル文学賞作家の川端康成(1899-1972)が、京都別宅として小説執筆の場所として選び愛した常宿でもあった。その他にも、三島由紀夫、チャールズ・チャップリン、アラン・ドロンなども宿泊している。
京都市内に構える旅館の中に、旅人である宿泊客が「和む」「安らぐ」「寛ぐ」を体感できるひとつが、旅館内に誂えた庭園である。
この庭の手入れを任されている「京都にわ耕」の岡本耕蔵さんは語る。
「庭がでしゃばらないことが、一番のポイント。『これ見て!』という庭は、疲れてしまう。作為はするが、無作為の空気感を室内から感じられる庭が存在するべき。違和感がなかったと言われることが、二重丸です」と。
また、仲居の大ベテランであった田口八重さんは、つねづね語られていた。
「言われてするのは、おもてなしではない。言われる前にしてこそ、“まごころ”です」と。
アート・トラベラーとして、川端康成の愛した14号室に泊まった又吉直樹さん(芥川賞作家)も、「余計なものが一切なく、時代を感じさせない宿です」と語る。
川端康成も、寄稿文に柊家の感想を寄せている。
「目立たないことと、変わらないこととは、柊家のいいところだ。昔から格はあっても、ものものしくはなかった。私が柊家に着いて安心するというのは、なじみの宿のせいばかりではない。柊家の家風のせいである」と。
(番組を視聴しての私の主な感想コメント)
「柊家」の庭園について
「作為はするが、無作為の空気感を室内から感じられる庭の存在」
これは言い換えれば、人工的であっても、限りなく自然の姿・風情・空気感を醸し出す“しかけ”ともいうべき日本庭園の技法なのであろう。
「これはどうだ」と押し付けるのではなく、さりげなく、自然体で、自ずからじわりと、自らの感性を呼び覚まさせるような、居心地であろうか。
番組でメインに取り上げられたのは、14号室も含め旧来の「旧館」であったが、一部拡張リニューアルした「新館」にも、柱のない庭をぐるりと一望できる大部屋のあつらえがあった。
伝統の中にも、果敢に近未来的な革新を取り入れるなど、挑戦する柊家の家風がみなぎっているなと感じた。
伝統というのは、単に古き良き先祖からの遺産や財物を護り抜くことだけではないのだろう。つねに新しい風に触れながら、伝統を重んじつつも、革新に挑む心意気があってこそ、「真の伝統」であり、「伝統たるものの真髄」なのではと考えた。
「伝統」にのみ寄りかかるような商いは、これからも顧客である旅人からは支持されないのではないか。「伝統」を重んじつつも、「新たな革新」への挑戦があってこそ、「真の伝統」といえるのではないかと。
「寛ぐ」ということ
日本人がもつ心象風景は、都市ではない地方が放つ、野山の風景だったり、川のせせらぎの音だったりを、イメージしやすい。
国土全体にわたり、人工の手が加わってくるとなると、「古き良き時代の心象風景」なぞは、もはや少なくなる一方であろう。
そんな中にあっても、素敵な意味で、頑なでありながらも、「さりげない作為の無作為」を、われわれ生身の人間が活きる価値のひとつとして尊ぶ精神は、決して失ってはならない大切なものと思う。
「柊家」は、「来社如帰」の心で、数寄屋造りの家屋はもとより、庭師さん、賄いさん、板前さん、女将さんなどが、総出で「言われる前にする真心」を、まさに体現されている「おもてなしを超える宿」であるなぁと、改めて感動した。
私にとっては、京都の旅での「定宿」にはできない存在であるが、一度は必ず頑張って泊まってみたい「素敵な宿のひとつ」になったのは間違いない。
写真 : 「新・美の巨人たち」テレビ東京放映番組<2020.4.4>より転載。
同視聴者センターより許諾済。
写真上 : 「柊家旅館」玄関
写真中 : 「川端康成が執筆活動でも愛用した和室<14号室>」
写真下 : 敷地内に誂えた庭園
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